「お母ちゃん、どこ行っちゃったの?」
民子は朝、ベッドの中で目が覚めた。6畳にも満たない小さな部屋には民子の他は誰もいない。民子は自分しかいないことに寂しさを覚えて、ベッドから出て立ち上がり、辺りを見回してそう言ったのだった。
「お母ちゃんがいないと、悲しい」
民子は、そう言いながら部屋を出た。部屋の外には長い廊下があった。そして、いくつもの部屋へと続く廊下がある。
「お母ちゃん」
民子はそう言ってから、廊下を歩き出した。まだ外は暗いし、廊下の電気も消えている。でも、向こうの方に明かりが見えるから、民子はそこを目指して歩いた。
明かりの場所は、一つの部屋みたいになっていた。扉と、民子の胸より少し低めの台がみたいなものがその明かりの部屋をぐるりと取り囲んでいる。
中には女の人がいて、民子を見かけると立ち上がって民子の方へ歩いてきた。
「ねえ、お母ちゃんを知らない?」
「民子さん、眠れないの?」
「うん。お母ちゃんがいないから寂しく」
「お母さんはね、お仕事へ行っているのだって。民子さんにはゆっくり休んでほしいみたいだよ。だから、お部屋にいこうか?」
「お母ちゃんがそう言ったの?」
「うん。きっとね。だから、一緒に部屋に戻ろう」
「じゃあ、お母ちゃんがそう言ったなら戻る」
女の人は優し気に微笑んで民子と一緒に歩き出した。
民子の部屋に着くと、民子をベッドに座らせて、靴を脱がせた。民子が横になるように促してから、掛け布団を女の人は民子にかける。
「ゆっくり休んでね。また明日ね」
「うん」
民子はそのまま眠くなって目を閉じた。
翌朝、民子は自分の部屋を出る。廊下を少し歩くと、直ぐに食堂があった。沢山の人がそこには座っている。半分以上が車椅子の人たちだ。
昨晩の女の人と、もう一人の女の人が忙しそうにお茶を配っていた。
民子は、それを横目でチラリとみると、そこを通り過ぎて、自分の部屋とは別の部屋に入った。
「あ、これは私が無くしたものだ」
民子は、そこにあった靴下を自分の懐に入れる。すぐ近くに腕時計もある。それは自分のポケットに入れる。
「良かった。見つかった」
民子は嬉しくなって、来た道を戻る。食堂の辺りでは食事が並べられていて、良い香りがしていた。
「私もご飯食べたい。私はどこの席だっけ?」
昨晩とは別の女の人が民子の膨れた腹を見た。
「民子さん、これはなあに?」
少しイラついた口調だ。昨晩の女の人みたいな優しい言い方ではない。
「うん? 何? よくわかんない?」
「ちょっと見るからね」
その女の人はそう言うと、民子の服を軽くめくった。中からは靴下が出てきた。
「民子さん、これはなあに? また人のものを取ってきたの?」
「知らない。そんなの知らない」
民子は急に怖くなった。本当に知らないのだ。
そこへ昨晩の女の人もやってきた。
「民子さん、これは持って行ってもいい? これは林さんのものみたい。林さんのところに私が戻しておいてもいいかな?」
民子は少しホッとした。
「うん。いいよ」
「全く、佐伯さんは甘いんだから」
「でも、民子さんは本当に覚えていないみたいだからね」
先に民子に話しかけてきた女の人は、民子のズボンのポケットも探りだした。
「何するの? 怖い!」
「民子さんが誰かのものを持ってきていると、またトラブルになるから調べているのよ」
「豊島さん、声掛けしてからにしてあげて」
「分かっているわよ」
「怖い! お母ちゃんに会いたい」
「お母ちゃんなんてここにはいません」
「そんなことない!」
「ほら、時計があった。これはなに?」
「怖い! お母ちゃん」
「豊島さん、食事介助お願い。民子さんの相手は私がするから。私の担当だしね。すぐに私も食事介助に入るから」
「分かったわ。仕方がないわね」
「民子さん、大丈夫だから。ほら、民子さんもご飯食べよう」
「お母ちゃんは?」
「お母ちゃんは、民子さんにご飯を食べてほしいって。ご飯をいっぱい食べたらきっと元気になるからね。お腹空いたでしょ?」
「うん。お腹空いた。でも、お母ちゃんに会いたい」
「まず、ご飯を食べないとね。民子さんがご飯を食べないとお母ちゃんも心配するよ」
「分かった。お母ちゃんを心配させたらいけないね」
民子は、佐伯と呼ばれた女の人と一緒に自分の席に言って座った。既に目の前には食事が運ばれている。
「これ、食べたらお母ちゃんに会える?」
佐伯は少し憂いを含めた表情で民子に微笑んでから、食事介助が必要な人の元へ行って、介助を始めた。
「きっとお母ちゃんに会えるよね」
民子はそう言ってから、ご飯を食べ始めた。
民子の母親は何十年も前に他界している。民子と母親は仲が悪く、20年ほど会わずにいた。民子は再び会ったのは母親の葬式だった。それから、更に年月が過ぎ、民子は日に何回か母親を求めて歩き回る。