海の中の月2

小説

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 びっくりした…………あんなに綺麗な人がこの大学にいるなんて。いや、大学とかそう言う問題じゃない。

 顔も小さいし、手足も長かった。一瞬だったけど、肌も白くて滅茶苦茶綺麗だった。

 今日は、あんな綺麗な人と言葉を交わせてついていたな。こんな奇跡的なことはもうないだろうけど、いい体験だった。ふんわりと凄くいい匂いもした。

 桜の花びらのおかげで、彼女の髪の毛に触れられた。それを意図して桜の花びらを取ると言ったわけじゃないけど、花びらに感謝したいくらいだ。

 この花びらは本の間にでも挟んでおこう。ああ、もう時間だ。研究所に行かなきゃ。

 僕は、花びらを挟んだ本をカバンにしまって、急ぎ足で研究所へと向かう。今いる大学の院生である僕は、ロゾグの研究所でアルバイトをしていた。もちろん、機密事項とかに触れることはできない。

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 人間の男は少し気持ち悪い。明らかに色目を使ってくる。もっとも、私から近づいたのだが、私の胸の辺りを見る者が多い。見てはすぐに目を逸らしてはいるが。

 こんな胸、動くのは邪魔なだけなのに。今では大した障害にもなっていないが、大きくなってきたときは、結構邪魔だった。でも、ティモアにいた時は、胸を見てくるものなどいなかった。胸が大きくなっていたときには、既に私は周りから羨望の眼差しを向けられることや、私の能力を評価し、そこだけに注視してくる者たちだけだった。

 まあ、この人間世界では、私は能力を隠している、なんなら勉強の方も少し分からない振りをすることもある。その方が人間の女としては男に好感を持たれると教えられたからだ。最も、国により違いはあるが、この日本ではそうみたいだ。

 ほら、あの男もまず私の顔を見て、髪を見て———やっぱり胸や足のあたりを見ている。あんな見方をして、こちらが気がつかないとでも思っているのだろうか? でも、あいつは結構いい香りがする。食べたらきっと美味しいのだろう。エボクなら耐えることもできずに食らいついているのだろうな………フフフ。

「すみません、ちょっと教えてもらってもいいですか?」

 まだ、今年入学してきただろう女が話しかけてきた。聞き取りやすい発音をしている。

「はい。なんでしょうか?」

 私は口角を少しあげて目の周りの筋肉も緩める。そうして親しみやすい表情を作ってみせるのだ。

 相手は、私の顔を見て、少し驚いた様な顔をし、そのまま金縛りにあったかのように微動だにしないで私のことを見つめている。

「大丈夫ですか? どこか体調が悪いとか?」

 私は少しの間を置いてから、相手の様子を伺った。

「あ、あの………すみません。あまりの綺麗な人だったので、ボーっとなっちゃって」

 そう言って、その女は頬を赤らめた。真っすぐな長く綺麗な黒髪が風でなびいている。

「何か、私に訊きたいことがあったのでは?」

 私は努めて優し気に言った。先ほどよりも、もう少し口角をあげてみる。

「あ、そうなんです。道を教えてほしくて」

 私が大学内で道を訊かれたのは初めてではない。だが、今までは男ばかりだった。明らかな私とのきっかけづくりばかりだったけど、今回は違うのだろう。そんなことに少し新鮮味を覚えた。人間世界に来てから初めての体験だからだ。いや、今までに誰かに道を訊かれたこと自体がない。他の目的がない相手にということではあるけど。

「私、今年入学したばかりで、ちょっと道に迷ってしまって。この辺りは理工学部であっていますか?」

「ええ、そうですよ」

「数学科の場所がどこか分かりますか?」

「分かります。もし、良かったら一緒に行きましょうか?」

 人間世界では、できるだけ人当たりをよくした方がいい。特に同性なら余計だ。異性だと、状況によって選択をした方がいい。

「本当ですが? ありがとうございます」

 引いていた頬の赤みが、再び色をつけた。ロゾグが、頬を紅潮させることなどないから面白い。

 この1年間、つまりこの大学に入ってから自分に話しかけてくる女のこんな様子は初めてだ。

 私は、人間世界では美しいと称されることを知っている。そもそも、ロイザーなら誰でもそうなるみたいだ。だから、道を歩いているだけでチラチラといろんな人間たちが見てくる。初めは煩わしかったし、目立つことに脅威を感じたが、服装や髪形を変えて、顔や体形を見えにくくすると注目をあまり集めなくなることも体感した(知識としては知っていた)。

 大学の女たちは、私に対して羨望や嫉妬の目を向けてきた。そして、表面上では普通に話すが、私となれ合わないようにしているのが明らかだった。そして、陰であることないこと悪口を言っていた。まあ、可愛いものだ。もしかしたら、彼女たちは本能的に私への恐怖を感じているのかもしれない。

 それが、この女はどうだろうか? 新たな観察対象となるかもしれない。その柔らかそうな首筋に噛みついたら、きっと、ジュワッと芳香な香りと共に、甘みもある深い味わいが広がるのだろう。

 面白いな、私は今日は2度も人間を食として想像している。さっきの男とこの女が人間の中でも食欲をそそるような香りを放っているせいかもしれない。もっとも、食べるのを我慢しなくてはいけないとすら思わないほど、私の理性は利いている。

「何か、面白いものでもありましたか?」

 隣を歩いている女が不思議そうにそう訊いてきた。

「ああ、ごめんなさい。可愛らしい新入生が入ってきたなと思って」

「えっ⁉ 私のことですか? そんな………私可愛くなんてないです」

「フフッ、そうやってすぐに顔を赤らめるところが可愛らしいですよ」

「やだ、私顔が赤くなっていますか? 恥ずかしい———私、顔がすぐに赤くなって恥ずかしいです」

「可愛らしくていいと思いますよ」

「そう言ってもらえるなら————」

「はい、数学科の人はだいたいこのあたりにいますよ」

「あ、ありがとうございました————あ、あの!」

「はい、なんでしょうか?」

「お名前と連絡先伺っては駄目ですか?」

 ああ、この女は私のことを知りたいのか…………その目的は、はっきりしないが、どうしてだか悪い気がしない。

「ええ、良いですよ。私は蒼葉、堤蒼葉と言います。蒼葉でいいですよ」

 堤は適当に付けた苗字だ。ロゾグにそう言ったものはない。

 女の名前は佐々木愛奈と言った。そこまで私と連絡先を交換できたのが嬉しいのかと思うくらいに嬉しそうにしていた。

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