水音は恋をしていた。それは、バイト先の大学生で、水音より2つ年上だった。
初めてのバイトを高校生になってから始めた水音に、その大学生、瀬川は優しく教えてくれた。水音が間違えても丁寧に気遣いの言葉をかけながら教えてくれた。
「お姉ちゃん、ちょっといい?」
香音は、1つ上の姉である水音の部屋の扉を少しだけ開いて、中を覗いた。
「何? 今、明日のテストの勉強しているんだけど」
「あ、そうなんだ—————じゃあ、いいや」
明らかに、香音はしょげた声でそう言った。
「はあ~、いいよ。明日はたいしたテストじゃないし。だいたい分かっているとこだしね」
「ほんと?」
水音の言葉に香音は嬉しそうにそう言って、水音の部屋に入ってきて、水音のベッドの上に座った。水音は机に向けていた体を香音の方へ向ける。
「で、どうしたの?」
「うん。あのね、今日告白されたの」
「誰に?」
「斎藤に」
「斎藤って、確か香音が好きな園田の友達じゃなかったっけ?」
「そうなの……………私、どうすればいいかな?」
そう言った香音の顔はまんざらでもない様子だった。
香音の顔は、母親ゆずりの大きな目があり、くっきりした二重を描いている。鼻筋も通っていて、ふっくらした唇は、中学生ながらに色気を感じさせるものだった。
「香音の気持ちはどうなの?」
「うーん………それが分からなくなっちゃって」
「そっか—————じゃあ、もう少し考えてみたら?」
「うん、そうする」
香音は嬉しそうに笑う。その笑顔に少し妖艶さを水音は感じたが、自ら気がつかない振りをした。
「でも、どうして斎藤は私のことを好きになったのかな? しかも、私が園田のことを好きなこと知っていると思うんだよね」
(ああ、いつものだな…………)
「香音が可愛いからだね。だから、誰にも取られたくなかったんじゃないの?」
「え~、そうかな?」
香音は首を横に傾げて少し不服そうに、でも誇らしげな様子だ。
「じゃあ、もう勉強してもいい?」
「え~、もう?」
「ごめんね」
香音は、今高校一年生。なんとか公立の高校に入学ができた。その時は、受験間際に水音に泣きついてきた。水音は香音に付き添って、勉強を教える日々だった。そもそも、水音も香音も塾には行ってなかった。両親が成績のいい水音に香音の勉強をみるように言いつけたのだ。
水音が中学三年生の途中に、父親の務めていた会社は潰れた。水音は通っていた塾を一学期の途中で辞めさせられた。それでも、元々成績の良かった水音は、レベルの高い公立の高校に入学ができた。
香音も通っていた塾を辞めさせられた。そもそも香音は塾へ行っても勉強に身が入らなかったので、塾を辞めることを喜んでいた。
「ねえ、お姉ちゃんのところでバイト受かったよ」
「えっ?」
ある日の夕食時に、香音が水音にそう言った。
「あら、良かったじゃない。みんないい人だって言っていたし、家からも近いしね」
水音の向かい側に座っていた母親の美沙がそう答えた。
「あ、うん………そうだね………」
水音の表情が曇った。だけど、母親も香音も気がつかないのか、気にとめないのか、楽しそうにバイトを始める話で盛り上がっている。
「香音はこんなに可愛いから、きっとみんなが優しくしてくれるわよ」
「やだーお母さんったら。私はお母さんに似たからだよ。私もいつまでも若く見られるかな?」
母親の美沙は二人の姉妹と間違われることが多々あるくらいに若々しく見えた。
「きっとそうよ。でも、あまり男の子たちに魅力を振りまきすぎたら駄目よ。この前みたいなことになっちゃうから」
「やだー、お母さんったら。あれは、あの二人が勝手に仲悪くなったんだもん。私のせいじゃないよ。むしろ私は間に挟まれた被害者だよ」
斎藤に告白された直後に、香音は園田にも告白をされた。香音はどちらにもはっきりした返事はせずに、何回かそれぞれと出かけたりしていた。香音の言い分としては、二人とも大切な友達だから傷つけたくないし、どうすればいいか分からなかったと。実際に二人とも押しが強かった傾向にはあった。だから、香音が断りにくかったと取れないこともなかったのだ。
香音は、今はその二人ではなく、自分が通う高校の生徒ではない別の高校の生徒と付き合っている。香音の友達が見かねて遊びに香音を連れ出した先で知り合った水音と同じ年の高校生だ。
「香音ちゃんって本当にいい子だね」
「ありがとうございます」
バイト先で、水音はパートの自分の母親と同じくらいの年のおばさんにそう言われた。
「水音ちゃんは物覚えがよくてしっかりものだし、本当にいい姉妹ね」
香音はいろんな場所でよく褒められた。実際に香音は家では我儘なところもあるが、学校などでは人当たりもよく、誰とでもすぐに打ちとけることもできた。
「それに、あの子の可愛さはやばいですよ!」
そう言ったのは、香音と同じ年のバイトの高校生だ。水音よりも年下にあたる。
「でも、あの子は彼氏がいるから駄目だよ」
「分かってますよ。どうせ俺なんかじゃ相手にされないし」
パートのおばさんと水音は、その言い方が少しおどけていて可愛らしさもあり、顔を見合わせて笑った。
「大丈夫よ。佐野君だって可愛い彼女がすぐにできるわよ」
「そうだよ。香音は無理でも他にもいい子はいっぱいいるからね」
「まあ、そうでしょうけど」
水音は、このバイトの後輩の佐野と一緒に働いていると楽しかった。でも、香音を見た時の佐野の驚き様には少し傷ついた。香音を見てから水音のことも見てきたからだ。見比べられたと水音は思ったのだ。
でも、水音が密かに思いを寄せている大学生の瀬川にそんな様子は見られなかったから水音はホッとしたものだった。
バイトからの帰り道、水音は母親を見かけた。後ろ姿だったが、明らかに母親だった。そして、その隣には知らない背の高い男がいて、二人は手を繋いでいた。
(お母さん………前と違う男と一緒だ………こんな家の近くで誰かに見つかったらどうするんだろう?)
父親の会社は潰れたが、今は父親は別の仕事をしている。だが、収入は減り、両親の喧嘩がある時期よく起こった。最近は両親の喧嘩があまり見られなかったが、お互いに他に付き合っている相手がいるようだった。だから、父親はあまり家に帰ってこなかった。それでも、家にお金は入れているみたいだった。母親の美沙は昼間にパートを週に何日かしている。基本的な生活と学校のお金は出してくれたが、その他の細々としたものは、水音は自分で出さなければいけなかった。香音は、母親や父親にお金をもらっているようだったが、遊ぶお金が足りないとかで、香音もバイトを始めた。
「お姉ちゃん」
水音が試験の勉強をしていると、香音が水音の部屋の扉を開けて顔を出した。
「なあに」
水音は香音に背中を向けたまま、応えた。
「ちょっと、勉強で分からないところがあるから、教えてほしいんだけど」
水音はチラッと香音の方を見た。
「ハア~、少しは自分でやったらどうなの? そもそも彼氏に教えてもらうって言ってなかったっけ?」
「うん………別れちゃったの」
「えっ⁉」
水音は香音の方を見た。
「なんか………二股かけられていたみたいなの…………他にも付き合っている子がいたのに、私とも付き合っていたみたい」
そう言った香音の顔は辛そうだった。
「そっか………辛かったね」
「うん」
香音は目に涙をため始めた。幼い頃から、香音は水音の前でよく泣いた。他の人の前では、母親の前でさえあまり泣かなかったけど、辛いことがあると水音のところでよく泣いていた。
水音は香音を自分のベッドに座らせた。香音は涙をこぼして泣き始めた。水音は香音の頭を撫でてやった。
「ごめんね。気がついてあげられなくて————」
香音はうっうっと声をたてて泣き始めた。今は二人以外家には誰もいない。
水音はバイト先でだんだんと香音を褒めることばかり聞くようになっていてうんざりしていた。水音が思いを寄せていた大学生の瀬川も、水音と仲良くしている様子だった。
そんな最中、バイト帰りに香音と瀬川が楽しそうに一緒に帰っているところを水音は少し離れたところから見かけてしまったのだった。
(きっと本当に悲しかったんだろうな。こんなに泣くなんて—————瀬川さんが香音に取られたら私も辛いけど、でも、それで香音が辛くならないならいいのかも—————)
優しく、大人な瀬川なら、香音の傷を癒してくれるのだろうと水音は思い始めていた。そう考えると、水音の胸も苦しくなるのだが、それでもいいと思い始めていた。
高校の二学期の期末試験が終わった日、水音は香音を連れ出して二人で遊びに出かけた。久しぶりの姉妹での外出は、二人とも楽しく過ごした。
二人で出かけると、町中で香音のことを見てくる男が多かったり、香音ばかり声を掛けられたりした。そんなことに嫌気がさしていた水音が、次第に香音と出かけることを拒否するようになっていたのだった。
「お姉ちゃん、私、瀬川さんのことが好きかもしれない………お姉ちゃんが好きだって知っているけど、どうしても好きみたいなの」
「うん、そっか。大丈夫だよ。私は少し憧れていただけだからね。瀬川さんなら優しいからいいと思う」
「本当に?」
「うん」
少し頭がボーっとするという香音の訴えがあり、二人は早めの帰宅をすることにした。その帰り道に香音が言ってきたのだった。水音はやっぱり胸が痛んだが、もういいやと思っていた。
家に戻ると、明かりが点いていた。玄関には男の人のものと思われる大きなスニーカーが母親のヒールの隣にあった。
水音と香音は顔を見合わせる。
「これ、お父さんのじゃないよ。お母さん、男の人家に連れ込んだんだ————」
ヒソヒソ声で香音がそう言った。
二人は、少し躊躇したが、中に入った。リビングの扉を開ける。その奥に母親の美沙の部屋がある。
「あ、あん、いい———いっちゃう———あ、あん」
リビングの扉を開けると、母親のよがり声が聞こえてきた。
水音は母親に対する嫌悪感が湧いてくるのを感じた。自分たちが暮らしている家の中でこういうことをするのはやめてほしいと切実に思った。香音の顔を見ると戸惑いの表情が浮かんでいた。
二人は、少しの間かたまっていた。
「香音、やっぱり外に行こう」
水音がそうヒソヒソ声で言うと、香音は頷いた。そして、二人がリビングを出て行こうとすると、母親の部屋の扉が開いて、中から裸の男が出てきた。
その男と、二人の姉妹はそのまま一瞬固まった。水音はその男の顔から眼が離せなかった。だけど、それが現実のものとも思えなかった。
「何よ、どうしたの?」
母親が部屋から出てきた。
「キャー」
悲鳴を上げたのは香音だった。金縛りに合ったような水音は、香音のその悲鳴で体が動いた。直ぐに香音の手を引いて家を出た。
二人は、なんとか泊まれる安宿にその晩は泊まり、父親に連絡をした。
水音と香音は父親と暮らすことになった。元の家はマンションで、父親の持ち家だった。そこは売って、別のマンションに暮らすことになった。
両親は離婚をした。父親は付き合っていた女がいたが、その相手と結婚をするつもりはないらしく、付き合いは続いたものの、毎晩家に帰ってきた。
「お姉ちゃん、私、当分は誰とも付き合わない。お姉ちゃんみたいにちゃんと勉強してお母さんみたいになりたくない」
「うん。そうだね————私が教えてあがるから大丈夫だよ。お父さんが大学も行かせてくれるみたいだし、私たち二人で頑張ろう」
「でも、私、やっぱり辛い。お母さんは私たちと暮らさないことも、全然平気みたいだった。むしろ楽でいいって—————私たちのことなんて、どうでもいいんだ」
(私もそう思った)
「でも、お姉ちゃんがいるから。それに、お父さんは家に女の人を入れないって約束してくれたでしょ」
「だけど————まさか瀬川さんとお母さんがあんな関係になっているなんて————」
香音は泣き出した。水音も泣きたかった。
その後に聞いた母親の言い分では、瀬川が大学生だと知っていたが、水音や香音の重い人だとは知らなかったということだ。瀬川も親子だと思っていなかったらしいが、二人のショックは大きく、母親と一緒にいることを強く拒否した。
父親との関係が悪くなったあとの母親は、何人かの男と付き合っていた。でも、家に入れたことはないと思っていたが、過去にも家に入れたことがあったらしかった。
「あんたたちが早く帰ってくるのが悪いのよ。私だって苦しいのよ。誰と付き合ったっていいじゃない」
最後に母親に会った時に母親はそう言った。
(私もお母さんみたいになりたくない—————でも、瀬川さんにもう逢えないのがこんなにも辛いなんて…………)
水音はしばらくの間胸の痛みを抱え続けた。
