「好き好きー! だーい好き!!」
そう言いながら咲菜は俺に飛びつくように抱きついてきた。俺は、僅かに後ろによろける様に後退したが、しっかりと咲菜を抱きしめた。
「俺も咲菜のことが大好きだよ」
俺がそう咲菜の耳元で言ったところで目が覚めた。
視界に入ってきたのは、天井にある咲菜の顔。今日も本当に可愛く微笑んでいる。その、咲菜の笑顔に俺も意図せずとも自然に微笑み返してしまう。
でも、すぐに携帯のアラームが煩わしい音を出す—————元々は、好きだったはずの音楽だから、アラームに設定したと言うのに、今ではすっかり煩わしい音に変わってしまった。
それでも、今朝はこの音に咲菜との幸せな夢を壊されたわけではなかったので、まだましだと思った。
「はあ~、だるい」
そう言いながら俺は体を起こす。6畳の狭い部屋は、昨晩自分で食い散らかしたものがそのままになっている。今は夏だけど、部屋はエアコンで快適な温度になっているから、問題はない。
「はあ~、行きたくねえ」
のろのろと俺は支度を始めた。朝は基本的に食べない。時間があるときは、豆を挽いてコーヒーを入れるけど、今朝はそんな時間がない。だから、ドリップコーヒーで我慢をする。
「あ、しまった! 俺としたことが。今日は木曜日だった」
俺は、大切な用を思い出した。毎週木曜日は俺にとって大切な日だ。この日は咲菜に朝から会えるからだ。咲菜は木曜日は必ず俺と通勤の電車が一緒になる。だから、一週間の中でかなり大切な朝だ。
俺は、いつもよりも念入りに身だしなみを整えてから家を出た。
そのうち、俺の入れたコーヒーを咲菜にも飲ませたいななど思いながら駅まで向かう。
進行方向から三両目の二つ目の扉から電車に入る。次の駅では、咲菜が同じ扉から中に入ってくるはずだ。
初めて咲菜を見かけたときのことを今でも鮮明に覚えている。電車に乗ってきた咲菜は、少し伏し目がちにした顔を上げた。その瞬間に俺と目があった。
俺は、別に咲菜のことを見ていたわけではない。ただ、反対側の扉に背をもたれていて、携帯を見ていた顔を上げただけだった。その瞬間に二人で目があったんだから、これは運命としか言いようがない。
ドク、ドク、ドクと急に心臓の音が聞こえてきた。咲菜の姿を目で追ってしまって、それに気がついていない咲菜は一つだけ空いていた席に座って、再び顔をあげたときに俺と目があった。そう、咲菜も俺のことを気にかけていたから二人は目があったんだ。でも、咲菜は俺と目があったことを恥ずかしそうにしてすぐ逸らした。
その様子も今となっては全部俺の大切な宝物だ。決してこの頭から消えていってほしくない。だから、俺は電車に乗る度に思い出すようにしている。
あ、あれ?
俺は驚いて辺りを何故か見渡す。でも、何処にも咲菜の姿はない。
おかしい、そんなはずはない。確かに咲菜はこの時間のこの電車に乗ってくるはずだ。でも、姿が見当たらない——————いや、そんなはずはない。咲菜だってこの木曜日の俺とのひとときを大切にしてくれているはずだから。例え、言葉は交わさずとも、俺と咲菜は確実につながっているのだから。
電車は無情にも咲菜が乗ってくるはずの駅から走り出した。どんどん電車の加速が増すごとに、俺の中の不安も増していく。
もしかして、夏風邪をひいたのか? 怪我とか、事故に遭っていたらどうしよう? 俺の助けを待っているかもしれない。
次の駅を通り越した電車は、更にその先の二つ目の駅で停車をした。俺はすぐに電車から飛び降りる。反対側に行く電車に乗るにはホームを隣に移らなければならない。反対側へ行く、つまり来た方へ戻る電車はすぐに来ることを俺は知っている。だから、全力で俺は走った。
なんとか反対側へ行く電車に乗れたけど、俺は汗だくになっていた。もしかしたら、汗臭いと咲菜にも思われるかもしれない。
電車を降りると、俺はまず会社へ連絡をした。
「お疲れ様です。石橋ですが、母が救急搬送されたと病院から連絡を受けまして、すぐに行かなくてはいけなくなりました————はい、そうです。このまま入院になるそうですが、手続きとかも必要とかでして—————午前中は半休を頂いてもよろしいでしょうか? ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
俺は、無断欠勤などしたことはない。しっかり働くことは咲菜との未来の為にも大切だからだ。だから、会社にもきちんと連絡をする。もちろん、俺の母親は救急搬送なんてされていない。ここから電車で一時間くらいのところで妹と暮らしている。
俺は、コンビニで汗拭きシートを買って、トイレでしっかり汗を拭き取る。咲菜の家までは駅から少し離れているから、また汗をかいてしまうかもだけど、そうしたらまた汗を拭き取ればいい。
今朝の夢————そう、あれはきっと今日の現実なんだ。俺は咲菜のところへ行くと、咲菜は感激をして俺に飛びついてくるはずだから。
咲菜は、きっと…………少し我儘を言いたくなったのだろう。俺の気持ちを確かめたくなったのかもしれない。だから、今朝は同じ電車に乗らなかったんだね。大丈夫なのに、俺は咲菜のことが本当に大好きなんだよ。
まだ続きます。
