石橋雄太は、横崎咲菜の家に向かっていた。電車を降りると真っ直ぐに咲菜の家に向かう。咲菜の家まで歩くと30分くらいかかる。石橋はタクシー乗り場のタクシーをチラリと見たが、やはり徒歩で行くことにしたのだ。
今日は、ついていることに曇り空だった。明け方近くには雨も降っていたようで、晴れのときと比べてずいぶん涼しく感じた。
石橋は、スーツの上着を脱いで小脇に抱えている。晴れているときよりは涼しいといっても、歩いていれば汗をかいてくるくらいの気温ではあった。
(ああ、あの角を曲がれば咲菜の家はすぐだ)
石橋はカバンの中に入れておいた汗拭きシートを取り出して首元を拭いた。辺りに人が誰もいないのを確認すると、ワイシャツのボタンをいくつかはずして脇なども軽く拭く。それが終わると手早くボタンをしめて服を整えた。
(咲菜、待っていてくれ。もうすぐ俺に会えるよ)
咲菜が暮らしているアパートの前まで来ると、石橋は今度はシステム手帳を取り出した。その手帳はアニメキャラクターのもので、表紙にはキイラという男主人公が描かれている。中にもいくつも同じキャラクターの様々なポーズが描かれていて、所々には持ち主のコメント的なものや予定が記されてもいた。更に、名前や住所を記載する場所があり、そこには丁寧に横崎咲菜と名前が書かれていた。名前だけではなく、住所まで書かれているのだった。住所の横には『すごく大切なものです。もし拾った人がいたら絶対に届けてね』というコメントまで抱えている。
石橋は、それを見て楽しそうに微笑んでから、咲菜の家のインターホンを押した。
家の中では、30分くらい前に咲菜とその友達の亜沙美が起きたところだった。
「咲菜、誰か来たよ? 届け物か何か? それとも昨日の警察?」
昨晩、路上で二人で歩いているところを男に襲われた。運よく二人は助かったが、襲って来た男を捕まえた警察がまた事情を聞くために来るかもしれないと言われていた。
「どうしよう。まだ、こんな格好だよ」
二人は簡単な朝食を済ませたばかりだった。2人ともまだルームウエアのままで、メイクもしていなかった。
「大丈夫だよ。別にそのままでもさ。もし気になるなら、私が出てもいいよん」
「えっ? さすがにそれは悪いから私が出るよ」
咲菜はルームウエアのままでインターホンに出た。少しだけ緊張というか不安が湧いてきた。その理由も自分の中ではっきり分かっていた。いくら捕まっていたとはいえ、今まで自分の周りをうろついていたストーカーがいたのだ。知らない誰かが自分を訪ねてくること自体が怖かった。
「はい———どちら様ですか?」
「ああ、すみません。ここは横崎咲菜さんのお宅ですか? 私は石橋というものですけど」
「どういったご用件でしょうか?」
「ここが横崎さんの家なら、咲菜さんが落としたものを届けにきました」
「落としたもの?」
「はい。アニメキャラクターのシステム手帳の様ですね。中に住所や名前も書いてあったので…………」
「あっ!!」
咲菜は慌てる様に玄関まで行って、すぐに扉を開けた。咲菜の目の前には咲菜の大切なものを持つスーツ姿の男が立っていた。
「あ、あの————確かにそれは私のものです———ありがとうございます」
咲菜は手を伸ばした。もちろん、システム手帳の方にだ。石橋はすぐに咲菜に渡してくれた。
「あ、ありがとうございます」
咲菜は、頭を深々と下げた。
「でも、どうしてわざわざ家まで?」
そう言いながら咲菜は顔を上げた。目の前の男は背が高く、人の良さそうな笑顔を咲菜に向けていた。
「仕事で近くまできたんです。打ち合わせだったんですけど、先方の都合でなくなっちゃって。だから、時間ができたし、始めから渡せたらって思っていたので。すごく大切なものみたいだったから」
「はい。本当に大切なものです————」
(やっぱりキイラ君だ。キイラ君としか思えない)咲菜は自分の心臓がドキドキしているのを感じた。
「それなら、良かった。今度は無くさないようにね」
「はい————あ、あの、何かお礼をさせてください。あ、あの、迷惑でなければ」
「いや、迷惑なんて———でも、それじゃあお言葉に甘えて」
「はい。その、ご飯とかおごるのはどうですか?」
「それじゃあ、そうしてもらおうかな。今日の昼とかはどう?」
「あ、あの、お昼は今友達が来ているので———今夜とかはどうですか?」
「いいよ」
二人は連絡先を交換した。お店の場所とかをあとで伝える為だ。それが終わると、咲菜は亜沙美が待っているベッドのところまで戻ってきた。
「亜沙美、これ、失くしたって言っていたやつだよ~。わざわざ届けてくれるなんて本当に親切な人だね」
「親切なんかじゃないよ——あいつは。下心が見え見えでしょ」
そう言った亜沙美の雰囲気はいつものコミカルなものがなかった。
「どうしたの? だって、私からお礼したいって言ったんだよ。わざわざ届けてくれたのに、恩着せがましくもなかったよ」
「あいつは駄目だよ。だいたい、咲菜は男苦手じゃなかった? 知り合い程度ならいいけど、付き合うとか無理って言っていたじゃん。あいつとのご飯なんて言っちゃだめだよ。連絡先も消して」
咲菜は亜沙美の雰囲気に驚いた顔をした。亜沙美は、ベッドの上に座りながら下の方を見ていて、咲菜の表情に気がつかない。
「なんなら、家を引っ越せばいいよ。私が引っ越し代は出してあげる。そうだ、そうしよう。これからすぐに不動産屋に行って新しい家を探そう」
「何言っているの? そんなこと簡単に言わないで。確かに、昨日あんなことがあったから怖いけど、もう犯人は捕まったし、引っ越しのお金なんて出してもらえるわけないでしょ」
「咲菜、いいから言うことをきいて。咲菜の為だよ」
亜沙美はそう言いながら勢いよく立ち上がって咲菜の腕を掴んだ。
「亜沙美、本当にどうしたの? 痛いよ」
「いいから———こんなところいちゃだめだよ。またあいつが来るかもしれない———まさか、こんなに早くここまで近づいてくるなんて———」
「何? 何を言っているの? 石橋さんを知っていたの?」
「知っているも何も———この際だから教えてあげるけど、石橋は咲菜の出したゴミとかを漁ったりしていたんだから。咲菜の家の前にずっといたりしてやばいよ」
「えっ⁈ 何で? 何でそんなことを知っているの?」
「そ、それは……………」
「何を隠しているの? いったいどういうこと?」
「咲菜、私は咲菜のことが好きなの。だから、あんな男と2人でご飯いくだなんてしないで。私の方が咲菜を大切にできるから」
亜沙美はそう言いながら咲菜に抱き着いてきた。背は亜沙美よりも咲菜の方が高い。咲菜は困惑した表情をしていて、動かない。そんな咲菜の顔を見た亜沙美は咲菜に顔を近づけてきた。もう少しで唇が触れそうになったときに、咲菜は亜沙美を押した。
「やめてよ。私はそんなじゃない。亜沙美は友達だけど、そんなじゃないよ」
押された亜沙美はベッドに足をひっかけてよろめいた。亜沙美は少し顔をあげて咲菜を見た。
「私は初めて会った時から咲菜が好き。初めてだったのこんな気持ちは」
「初めて会ったときって————だって、亜沙美は何人もの男と付き合ってきているでしょ。今だって———」
「だって、男から寄ってくるから。それに、ちょっと体を許せばいろいろいうこと聞いてくれたし、いいカモフラージュになってくれた」
「そんな————」
「男を好きだなんて思ったことは一度もない。でも、誰もいない家に独りでいるよりはずっと良かった。呼べば直ぐに来てくれたし————でも、咲菜に出会って分かったの。私が求めていたのは咲菜だって」
咲菜は亜沙美の顔を見た。亜沙美の顔を真剣で必死さも現れていた。
「ごめん、正直混乱している。でも、それと石橋さんのことはよく分からない。何で石橋さんが私の家の前にいたとか知っているの? ストーカーは昨日捕まったでしょ」
「あれは———あの男は私が雇った男だから」
「何それ? だって、亜沙美だって襲われたでしょ」
「あの男がどういうやつかは知らない。ネットの闇サイトで雇っただけで、顔も名前も知らない」
「それで、どうして私たちを襲ってきたの?」
「それは————」
亜沙美は唇を噛み締めて、咲菜の顔を見た。咲菜からは今まで感じたことのない亜沙美への不信感が生まれていた。亜沙美はそれに動揺を隠せなかったが、観念したかのように口を開いた。
「昨日、そう指示したから。さ、咲菜に頼られたかったの。咲菜と一緒にいたかったから、あの男に咲菜の周りを少しだけうろつかせた」
咲菜の顔は固まった。
「で、でも、全部あの男にやらせたわけじゃないの。私自身でも咲菜を見守っていたから」
「見守っていたって?」
「だ、だって、夜道は危ないから。それに———どうしても咲菜の近くにいたかったの。もっと、ずっと一緒にいたかったの」
咲菜の顔には不安の色も見えてきた。
「私の自転車が無くなったけど、それは知っている?」
「それは大丈夫。元の場所に戻しておいたから。行けばあるはずよ」
「私が怖がっていたでしょ。何考えていたの?」
「咲菜を守りたかったの。頼られたかったの。それに、怖がる咲菜は可愛くて」
咲菜はフラフラとよろけて、ベッドの上に腰を下ろした。困惑した表情で亜沙美を見上げてきた。
「出て行って。私には無理。もう、無理」
「咲菜、駄目。そんなの無理だよ。私には咲菜が必要なの」
「出て行って!」
強い口調で言い放たれた咲菜の言葉に、沈黙が流れた。
「あの男がいいの? そうでしょ? あんな男は駄目だって言ったでしょ」
そう言った亜沙美の雰囲気は、いつもの亜沙美とはまるで違い、咲菜の中に不安がどんどん広がっていく。
「ひどいことしていたのは亜沙美じゃない」
「違う、私は————」
亜沙美は咲菜の両腕を自分の両腕で掴んできた。すごい力だった。
「絶対に行かせない。あんな男のところになんて。咲菜は私のものよ」
咲菜の顔に恐怖が浮かんでいた。
「やめてー」
咲菜は力いっぱい亜沙美の腕を振り払うと、走って家の外へ出た。その後を亜沙美も追ってくる。
自分を追ってくる亜沙美に対して更に恐怖に包まれた咲菜は、走って逃げ出した。最初の角を曲がると、すぐにスーツを着た男の後ろ姿があった。
「助けて!」
咲菜は男を呼び止めた。振り向いた男は石橋だった。
「咲菜さん、どうしたの?」
石橋は、咲菜にそう言ったが、すぐに咲菜の後ろから亜沙美が現れた。
「お前なんかいなくなれー」
石橋の姿を見ると、亜沙美はすごい形相でそう言った。石橋の向こうには、他にも年配の老夫婦が歩いている。
亜沙美は、咲菜を抜けてそのまま石橋の肩をどついた。石橋は少しよろけた。
亜沙美はすぐに咲菜の手を掴むと、引っ張って元来た方へ連れていこうとした。
「いや、やめて」
石橋がすぐに亜沙美の手を掴む。
「放すんだ!」
「うるさい! お前は黙れ!」
亜沙美は咲菜を掴んでいるのと反対の手で、石橋の頬を思い切り引っぱたいた。辺りにはパアンという音まで広がった。
「何事ですか?」
二人の刑事がその場面を見ていて声をかけてきた。
「篠原さんでしたっけ? とにかく落ち着いてください」
一人の男の刑事が亜沙美にそう声をかけた。亜沙美は刑事二人をもの凄い目で睨みつけたが、観念したように下を俯いて咲菜の腕を離した。
二人の刑事は、咲菜の家に来たのだった。咲菜の携帯も亜沙美の携帯も繋がらなかった。昨日捕まった犯人の供述で、誰かに依頼されたと話していたことから、ストーカーの犯人が他にいるかもしれない可能性を警察が考えたのだった。咲菜と亜沙美の携帯はどちらも寝る前にマナーモードにしていた。
亜沙美は刑事に連れていかれた。より詳しく事情を聞くために。現場にいた老夫婦も警察に状況を話していたし、咲菜の話から犯人は亜沙美であるという線が濃くなった。
石橋に付き添ってもらいながら、咲菜は自分の家に戻った。今、咲菜の家には石橋もいる。
「咲菜さん、きつかったね。まさか、友達がこんな———」
ベッドの前のローテーブルのところに二人は座っている。石橋は咲菜の肩に手を回した。
咲菜はうつむいていた顔を上げて、石橋の顔を見上げた。
(ああ、あの時と同じ顔をしている。初めて会った時————これは、全て俺と咲菜が結ばれるために必要だったことなんだね)石橋はそう思った。
「石橋さん———こんなことになってすみません。私、どうしていいのか————」
咲菜は再びうつむいた。
「そうだよね。落ち着くまで俺がそばにいるよ」
石橋は幸せに満ちているような顔をしていた。
(亜沙美のおかげで、石橋さんがそばにいてくれる————)咲菜はそう思った。
「そばにいてください。まだ、混乱していて———怖くて————」
咲菜は体を縮こめる。そんな咲菜を石橋は抱きしめた。
「大丈夫だよ。俺がいるからね」
(そう、キイラ君————そばにいて。石橋さんはやっぱりキイラ君なんだ。初めて会った時から、ずっとそんな気がしていた————亜沙美、ごめんね。私は石橋さんがいい。だって、石橋さんはキイラ君だから。電車で何度も目があってドキドキしていた。自分が生身の男の人相手にって不安だった。でも、石橋さんがキイラ君を届けてくれて分かったの。だから、亜沙美、ありがとう)
「石橋さん、どうしてあそこにいたんですか?」
石橋が咲菜の家を離れてから、時間は経っていた。少なくとも、石橋があのときにまだあの場所にいることがおかしいことだった。
石橋は、咲菜の家の周辺にいたのだ。少し離れたところから、咲菜との妄想に浸っていた。その後、去ろうとしたところに咲菜が走って現れたのだった。
「い、いや、それは————」
(時間的にあそこに石橋さんがいるのはおかしいですものね。でも、私は分かっています。石橋さんは知っていたんですね。亜沙美が私をストーキングしていること。だから、心配でいてくれた————だって、石橋さんも私のことをストーカーしていたのでしょ———きっと)
「いいんです。石橋さんがいてくれることが嬉しいから」
(キイラ君、絶対に離さない。あなたの会社も住んでいるところも知っているから————亜沙美や石橋さんほどは行動していないけど、それくらいは私も調べられた。私、石橋さんが私に渡してくれるかどうかかけたんです。そうしたら、家まで来てくれた。だから確信したの)
「石橋さん、離れませんからね」
「ああ、もちろんだよ———」
(離れない? ああ、いいよ————咲菜は俺のものだ)
最終回です。
