「お願いします———少しだけ一人にさせてもらえませんか?」
案内をしてきた警察は、少し考えているようだったが、壮司の願いを聞き入れ、壮司を残してその部屋から出て行った。
壮司の膝は力が抜けたようにガクリと折れてそのまま床についた。遺体が乗っている台の上の端に、しがみつくようにして壮司は捕まっている。
「奈美子………こんなの無理だ………頼むから嘘だと言ってくれ。これは悪い夢だと………」
壮司は涙声でそう言った。実際、下を俯いて声を殺して泣いている。
「奈美子、戻ってきてくれ。どんな姿でも構わない。俺と亜由美を置いて逝くな。俺はお前がいないと生きていけない」
壮司と奈美子は仲の良い夫婦だった。付き合っていたときから仲が良かったが、亜由美が生まれてからは、亜由美が二人の絆を強くしたかのように、更にお互いを大切にし、幸せな毎日を過ごしていた。
壮司の仕事は営業だったが、奈美子と結婚してからは、仕事も驚くほどうまくいっていた。壮司は二日前から出張に出ていた。そして、今日帰ってくる予定だった。亜由美は中学二年生。思春期で反抗的なところはあったものの、それでも家族仲は良かった。
そんな中、帰宅途中の壮司の元へ連絡が入った。車で15分程度のところに暮らしている奈美子の両親からだった。
「壮司君———————早く帰ってきてくれ—————————亜由美はうちで預かっている。だから、真っ直ぐに警察へ————」
いつも要点を簡潔に述べる奈美子の父親からの電話だった。でも、意味がよく分からない。新幹線の中だから聞こえにくいのかと思った。それにしても警察という単語に壮司は微かに不安を覚えた。
「お義父さん、ちょっと、聞こえにくくて。すみません、警察とは?」
「だから————な、奈美子が殺された。奈美子が殺されたんだ」
「えっ⁉ よく理解ができませんが、僕の聞き間違いですか?」
「違う! 奈美子が殺されたんだ」
その瞬間に、思考が停止してしまったかのように頭が真っ白になった。
「壮司君、聞こえたか? 壮司君」
電話の向こうでは奈美子の父親が壮司の名前を呼んでいた。でも、壮司は体にも力が入らず、両手を膝の上に落とした。電話を今にも落としそうなくらい軽く持ちながら、しばらく呆然としていた。
そのうち、次の停車駅に着くアナウンスが流れ始めた。その駅に新幹線が入ってくると、壮司の奥に座っている人が壮司の前を通ろうとした。壮司はハッとして膝を縮めた。その拍子に携帯が落ちそうになり、携帯を強く掴んだ。
(そうだ、お父さんから電話がかかってきていたんだった)
電話はとっくに切れていた。壮司は今度は自分から奈美子の父親に電話をかけた。
「壮司君、気をしっかり持ってくれ。俺もまだ混乱しているが、君には亜由美もいる」
「はい————今新幹線の中なので、このまま警察へ向かいます。僕が迎えに行くまで亜由美のことをよろしくお願いします」
「ああ、分かった」
(奈美子が、奈美子が死んだ? 信じられない———殺されたって? 誰に? 何で? そんなこと信じられない————信じることなんてできっこない)
壮司はそう思いながらも、真っ直ぐに警察へと向かった。
「亜由美、どうした? 怖い夢でもみたのか?」
亜由美の叫び声で壮司は目を覚ました。すぐに亜由美の部屋へと駆けつける。亜由美は怯えた様子でベッドの上の壁際の隅に縮こまっていた。壮司は部屋に亜由美の姿を見ると、とりあえず安心して、亜由美のベッドに腰かけた。
「お、おか、おかあさんが————」
亜由美はガタガタ震えている。
亜由美は部活を終えて家に帰ってきたところに、母親である奈美子が玄関で刺されている現場を目撃した。すぐに悲鳴を上げながら逃げ出し、近くを歩いている人に助けを求め、警察がやってきた。犯人はまだ捕まっていない。
新築の一戸建ては暮らしてから5年以上の月日が過ぎている。奈美子の両親の家に暮らすことも提案されたが、そうすると亜由美の学校の問題が出てくるのだった。交通機関を利用すれば通えない距離ではないが、問題は奈美子の両親の家が別の市にあるということだった。
亜由美は夜中に悲鳴をあげることが多々あった。自分の母親が殺される現場を目撃してしまった亜由美はカウンセラーにも通っているが、うなされる毎日が続いていた。
亜由美が今の学校に通える範囲で暮らす場所を探せばいいのだが、壮司はなかなか踏み切ることができないでいた。
「亜由美、おはよう」
元々、朝食は壮司が用意していた。昨晩も亜由美はうなされていたが、ちゃんと時間通りに起きてきた。
「お父さん、おはよう」
そんな暗い様子も見せずに、亜由美は食卓へ着いて食事を始めた。その姿に壮司はホッとする。
(きっと大丈夫だ、この家にいたって。この家にはまだ奈美子がいるような気がするから、他にはどうしても行きたくない)
今も警戒のパトロールは頻回に行われている。亜由美も毎日学校に通えている。仕事場では壮司を気遣い、残業などの負担を軽減してくれている。今日は、上司に勧められて溜まっていた有休で休みにしていた。
亜由美を学校へ送り出したあと、壮司は洗濯や掃除などをした。それらがすっかり終わってしまうと、壮司がガックリきてソファに座った。
「奈美子、会いたい。どんな姿でもいい、夢の中でもいい、俺に会いにきてくれ———」
壮司は床を見つめながら、そう呟いた。
フッと冷気を感じた。今は9月だが、まだ残暑がずいぶん残っている。掃除をしていてエアコンは止めて窓を開けていた。外から風が入ってくるものの、冷たい風でもなく、壮司は少し汗ばんでいたはずだった。
壮司の目線の先に、足が見えた。それは女の足で、壮司にとってすごく見覚えのある足だった。壮司は勢いよく顔を上げる。
「奈美子!」
『壮司————大好きよ。全部あなたのためだったの———分かって』
奈美子の姿をした何かは、そう言いながらソファに座っている壮司を包み込むようにして抱きしめてきた。壮司には温もりが感じられない。でも、奈美子がよくつけていた香水の匂いがした。
「奈美子」
壮司も抱きしめ返した。何度も抱きしめた奈美子の体とは少し感じが違っていた。それでも、壮司はしがみつくように抱きしめた。
『私—————引きずられる———————だから』
「奈美子、何処にも行くな。ずっと一緒にいてくれ」
『壮司———一緒にいて————私も寂しい———』
「奈美子、俺もだ。お前を絶対に離さない」
奈美子は壮司から体を少し離した。壮司の顔を見て再び口を開く。だが、何を言っているのか壮司の耳には届かなかった。
「奈美子!」
視界に入ってくるのは、自分の家のリビングの天井だった。壮司はソファの上にいつの間にか横になって眠っていたようだった。エアコンのついていない部屋の暑さを壮司はジワジワと感じ始めた。
夕方になり、亜由美が帰って来た。亜由美はすぐに入浴をしにいった。壮司は畳んだ洗濯物を亜由美の部屋へ持っていく。
亜由美の部屋の机の上に見たことのない本が一冊乗っていた。
「これは?」
なんとなく気になって壮司は手に取って開いてみた。
【死したものは、生前と同じではない。その考えも、思いも悪しきものへと変わる。何故なら、何かしらの未練や無念などでこの世にしがみつくのだから。
また、生前の周りの人間が、死したものを強く思いすぎると、この世に引き留めることとなる。その場合も生前と同じではない。人の思いの強さは、開けない扉を開くときがある。生きている者は死したものに、連れていかれないようにしなければならない】
ちょうど開いたページに書いてあった内容を壮司は読んだ。
「お父さん、何しているの?」
壮司はドキリとして後ろを振り返った。そこには、亜由美が立っていた。
「あ、いや………洗濯物を置きにきたんだ」
亜由美は壮司の手元の本を見た。
「その本、友達のお姉さんに借りたの。最近怖いことが多いって言ったら貸してくれた」
「怖い事?」
壮司は本を元の場所に置いた。
「お母さんが死んだときの夢はまだ見るけど————それだけじゃなくて、あの辺に———」
そう言って、亜由美は自分のベッドの足元の少し先を指さした。
「血まみれのお母さんが見えることがある」
(亜由美のショックはやっぱり計り知れないのだろう)
「それは、やっぱり夢だと思うよ。お母さんのあんな姿を見たから、まだショックが抜けていないんだな」
「違う、違う! あれは夢なんかじゃない! 血まみれのお母さんが私を睨んでいるの」
「亜由美、大丈夫だよ————お母さんが亜由美を睨んだりするわけないよ。それは、亜由美がお母さんを助けられなかったから、それがどこかで罪悪感になってそんな夢を見るのだと思う」
「違う————そんなんじゃない————」
「明日も学校だろ? もう寝なさい」
亜由美は本の方をジッと見つめていて何も言わなかった。
「じゃあ、お父さんはもう行くよ。何かあったらお父さんを呼びなさい」
(あの本————あれに亜由美は変な影響を受けているんじゃないのか? あんなに大切にしていた亜由美を奈美子が怖がらせるはずがない)
その晩から、壮司は奈美子の夢をよく見るようになった。目が覚めた時、夢の内容を全く覚えていない壮司だったが、奈美子が夢に出てきていたことだけは分かった。
「壮司さん、何だかやつれた?」
奈美子の母親が久しぶりに壮司と亜由美の家にやってきていた。
「お義母さん、心配かけてすみません。でも、大丈夫です」
最近、壮司は仕事場やその他でもやつれたと言われることが多々あった。
「お父さん、最近食欲も落ちているの。だから、痩せたんだと思う」
「壮司さん、しっかり食べないと駄目よ。奈美子のことで辛いのは分かるわ。私も犯人が憎いし、本当に辛くて仕方がない。でも、亜由美のためにしっかりしてあげて」
「はい。気をつけます」
(ここは———俺の家だ。リビングに誰かがいる。俺の家のリビングで誰かが体を交わらせている————あれは⁉)
俺は、勢いよくリビングの扉を開いた。
「奈美子! 何を⁉」
いきなり家に現れた壮司に、奈美子とその相手はかなり驚いていた。
「壮司⁉ 何で今ここに? そんな黒いパーカーの帽子を被って」
奈美子はひどく驚いた顔をしていた。でも、次の瞬間には状況を把握したようだった。
「ち、違うの、これは、違うの」
奈美子が懇願するように壮司にそう言った。
「なんだ! 厄介なことに巻き込まれるのはごめんだ」
奈美子の相手の男はそう言いながら、脱ぎ捨ててあった自分の下着やズボンを着ていく。相手の男の顔に壮司は見覚えがあった。でも、誰だったかはっきり思い出せない。
男は自分の荷物を持って、さっさと玄関の方へ向かった。奈美子は玄関までその男を見送りに行った。壮司は、フラフラとその2人の後を追って、玄関まで来た。男が玄関から出たのを見ると、壮司の中に激しい怒りが湧いてきた。
壮司は、走っていって玄関から外へ出ようとした。男の後を追うためだ。でも、奈美子がそれを止めた。壮司は壮司の腕を掴んだ奈美子を振り払う。奈美子は少しだけ後ずさった。
「いったい、どうしたんだ? なんであんな男が?」
「あなたのためなの————あなたのためなのよ」
(ああ、気持ち悪さが込み上げてくる。奈美子の裏切りはこれが初めてではない————何でこんなものを毎晩夢で見なくちゃいけないんだ————)
壮司はハッと目を覚ました。いつもは覚えていないはずの夢を今回は覚えていた。壮司は体を起こしたが、すぐに頭を抱え込んだ。
(いったい、何であんな夢を? 奈美子が俺のことを裏切るわけがない)
壮司は嫌な汗をかいていた。こんな夢を見た自分が許せない気持ちになった。
会社帰り、壮司はふと奈美子とよく一緒にいった場所を思い出した。前に、壮司の友達が1人で暮らしていた10階建てのマンションだが、屋上へと続く鍵が壊れていた。夏場の花火がそこから見えるという話で行ったのがきっかけだった。花火の時以外は誰もいないし、奈美子がその屋上を気に入ったので、その場所で2人でよく過ごしていた。
(奈美子が呼んでいる気がする…………)
壮司はそんな気がして、マンションの屋上へあがっていった。今では、そのマンションに暮らす人はほとんどいない。築が古いそのマンションは壊すことが決まっていて、住民のほとんどは既に立ち退いているのだった。壮司の友達は何年か前に既に他へ引っ越している。
屋上へと続く扉を開けると、そこには誰かがいた。
『壮司————こんなにあなたを思っていたのに————あなたのためなら何でもできたのに————どうしてなの?』
「奈美子! 会いに来てくれたのか!」
壮司は奈美子のところまで駆け寄って、奈美子に抱き着こうとした。でも、掠っただけで、抱きしめることができない。
「奈美子! 奈美子! 君に触れたい。奈美子がいないと俺は生きていけないんだ」
『なら、私と一緒に来て————そうすれば、ずっと一緒にいられるわ』
「奈美子と一緒にいられるなら、何処へでも行くよ」
そう言葉を口にしたが壮司だったが、その脳裏に亜由美の姿が過った。
「奈美子、亜由美、亜由美とも会ってやってくれ。あの子は、今も苦しんでいるんだ」
奈美子は悲しそうに首を横に振ったかと思ったら、その姿はすうっと消えてしまった。
「奈美子、奈美子! 行かないでくれ!」
辺りが歪んだような気がして、壮司は気が遠くなるのを感じ、そのまま下に倒れた。
(ここは? そうだ、俺の家だ)
壮司は、気がつくと自分の家のリビングにいた。ソファの上にいつも乗っているクッションが2つとも下に落ちている。ソファの上の前のローテーブルには、ガラスのコップが2つあって、アイスコーヒーの飲みかけが入っていた。
「それで、他の男とも寝たってことか! 俺の契約相手たちと!」
「あなたを喜ばせたかっただけなの。契約がうまくとれなかったときのあなたを見ていられなかったから」
(誰だ? 玄関に誰かいる。この声は奈美子と———俺の声に似ている気がする)
壮司は、慎重にリビングから玄関の方を見た。こちら側に背を向けて、奈美子と、黒いパーカーのフードを目深に被った男が玄関の扉に背を向けて体をブルブル震わせている。
(あれは、誰だ? いや、これは、この前見た夢だ————俺は、相手の男を追いかけようと玄関の扉を開けようとした。でも、奈美子がそれを阻止して、言い合いになった)
壮司の視界は少しぼやけていた。まるで白く薄いベールがかかったようだった。そのベールが揺れているように消えたりかかったりしている。
(き、気持ち悪い————俺は、俺はそんなことしていない。奈美子を愛している————でも、見てしまった。奈美子が他の男たちとも、俺の契約相手達と寝ているのを。まるで俺の実体がないように、俺は何もできなかった。でも、このときは全部の感触があった。だから俺は、始めからナイフを持っていて————)
「う、うわああああああああああああああああああああああ」
黒いパーカーを目深に被っている俺が、叫び声をあげてナイフで奈美子に襲い掛かった。
『奈美子!』
俺は、奈美子の名を呼んで走り出した。既に何度か刺されている奈美子は、俺の声に反応したのか、俺の方を見て笑った。
ゆっくりと奈美子の体が下に倒れていく。もう1人の黒いパーカーを着ている俺は、それでも、奈美子をめった刺しにしている。俺は、2人の間に入ろうとして、自分に実体がないことに気がついた。
意識を失いながら、奈美子は実体がない方の俺を見て微笑む。でも、その目は閉じられていった。
ガチャリと玄関の扉が開いた。そこには、亜由美が立っていた。黒いパーカー姿の俺は、亜由美に背を向けている。亜由美の方を見もしない。
亜由美は、一瞬固まったかと思ったが、すぐに走って逃げ出した。
「俺が殺した————俺が、俺が———覚えていなかったのに、何で奈美子を刺した感触まで、今は分かるんだ? あれは、夢だろ? 俺が奈美子を殺すはずない————奈美子が俺を裏切るはずない」
取り壊されることが決まっているマンションの屋上に壮司はいつの間にか戻ってきていた。壮司は横になっていた体を起こしたが、そのまま膝をついて頭を抱えた。
フワッといい香りが壮司の鼻に届いた。それは、奈美子がよく使っていた香水の香りだった。壮司は顔を上げる。
「奈美子———」
目の前には、奈美子がいた。壮司に刺されて目を閉じていくときに見せた笑顔をまたしていた。
『壮司、一緒に行こう』
奈美子は壮司に片手を差し出してきた。壮司はまるで縋りつくようにその手を握る。奈美子に促されるままに立ち上がって、奈美子についていった。
「お祖母ちゃん、お父さんがまだ帰ってこないの」
「まだ帰ってこないの? もうこんなに遅いのに————亜由美も1人じゃ怖いから、お祖母ちゃんの家に今夜は来る? 迎えに行ってあげるから。明日も学校まで送っていってあげるよ」
「うん。お願い」
そんなに遅くならないと言っていた壮司は、帰ってこなかった。亜由美は、奈美子を殺した犯人が捕まっていないこともあり、不安を覚えて祖母へ電話をしたのだった。
翌日、亜由美が学校へ行っている間に、奈美子の両親の家に連絡が入った。壮司が取り壊しが決まっているマンションの下で死んでいるとのことだった。
