フワフワする————そうこの感じは酒を飲んで少し酔い始めたくらいのときと似ている。フワフワしていて気持ちがいい。
噛まれたときは痛みが走った。でも、すぐに今みたいな状態だ。だから、今は痛くもなんともない————ただ、フワフワしていて気持ちがいい。でも、意識がはっきり覚醒していない。今、何をされているんだっけ?
手足にも力が入らない。なんとか立っている感じだ。でも、俺を誰かが支えている。俺を支えているのは—————?
俺の首筋に食い込んでいる何かが外れたのが分かった。やっぱり痛みは全くない。そして、俺から体を離し、数歩後ろに下がった奴の顔を見て、俺は急に頭が活性化していくのを感じた。
「神野さ————いったい何を⁉」
神野キリコの口元は赤く汚れていた。その汚れを神野キリコはベロリと舌でからめとった。神野の目はさっきまで黒かったはずなのに、赤く光っている。
「ごめんなさい。でも、仕方がなかったの」
神野キリコはそう言うと、その場から姿を消した。たった今まで俺の前にいたはずなのに、その姿はどこにもなくなった。
「か、体が何か変だ! 何だ⁉ この変な映像は!」
俺の脳裏に何かの映像と一緒に音が入り込んできた。今目で見えている景色とは別に俺の脳が何かを認識している。
「だ、誰だ? お前は」
初めは誰かがいた。でも、男か女か分からない。ただ、目が赤くてすごく綺麗な顔をしていた。そいつは、誰かの首筋に噛みついた。すると、噛みつかれた奴も24時間後には同じ目の色をしていた。綺麗な顔をしていた奴は別の2人にも噛みつく。すると、その2人は同じような目の色をする。だけど、3人に噛みついてから、綺麗な顔の奴は徐々に変化していって、人間に戻った。
別の赤い目をした奴が今度は他の赤い目の奴に襲い掛かった。そして、全部で3体の赤い目をした奴を消滅させた。すると、こいつも徐々に人間に戻った。
人間に戻るまでは30日かかる。3人の人間を同じように変化させるか、3体の化け物を消滅させるか?
ああ…………なんでこんな映像が俺の頭を流れてくる?
俺は、急にハッとなった。頭の中に流れてきた映像は消え失せていた。目の前には誰もいない。俺の着ているTシャツの首元は湿っている。おそらく俺の血だ。でも、目の前には誰もいない。
俺は、何がなんだか分からなくなって、フラフラと歩き出した。
大学1年生の俺は、少し家から離れた場所でバイトを始めた。バイトを始めて数ヵ月経って、バイトのみんなで飯を食べに行った。
俺よりも少し前から働いている高校2年生の神野キリコは可愛い子だった。どことなく色気があって、男の視線を惹きつけた。俺もあっさりその1人になっていたわけだけど、飯の帰り道、家の方角が一緒だったし、最寄りの駅も隣だったから、一つ前の駅で降りて家まで送っていった。少し下心もあった。
でも、神野から人気のないところで立ち止まって、俺に抱きついてきた。俺もそのまま抱きしめ返したけど、そのあと、首に痛みを感じた。でも、すぐにその痛みはなくなって————。
俺は、フラフラと家に向かいながら頭の中を必死で整理した。
「あいつ、俺に気があるかと思ったのに————俺に噛みつくのが目的だったのか? 何でだ?」
さっき頭に流れてきた映像も意味が分からなかった。
家に入ると、奥の方から母さんの声が聞こえてきた。
「敦、帰ったの?」
「うん。もう疲れたから寝るよ」
俺は、2階の自分の部屋までいって、ベッドに横になってそのまま眠った。
翌朝目を覚ますとまだ夏なのになんだか少し寒かった。昨日あったことを思い出して鏡を見てみた。でも、俺の目は黒いまま。少し白めのところが充血しているけど、黒い部分は変わらない。シャワーを浴びてすぐに大学へ向かった。
電車の中、何故か車内がいい香りに包まれていた。いつもはあまり何も感じないか、匂いのきつい奴のことだけ不快に思ったりするのに、今朝はいい香りがすると思った。何故か食欲がそそられた。
トンネルに入ったとき、ドアのところに立って外を見ていた俺は自分の目の色にハッとした。俺の目は赤かった。さっきまでは黒かったのに、赤くなっている。
俺は、大学には行かずに次の駅で降りた。誰にも目を見られないように俯きながらトイレに駆け込む。小さな駅のトイレは誰もいなかった。俺は鏡を覗き込む。鏡を見た瞬間は赤かった目が、すぐに黒に戻った。
俺は携帯を取り出して前に聞いた神野の連絡先にDMを送った。
『お前、昨日俺に何かしただろ? 俺の目が赤い。これ、どうすればいいんだよ』
軽く混乱している俺は、ただ自分の言いたいことだけを打って送った。でも、意外にもすぐに返事は来た。
『赤い目は誰かに噛みつきたいときに出てくる。鼻で呼吸しなければ香らないから赤くならない』
『やっぱりお前のせいなんだな。いったい俺の体に何をしたんだ』
既読はすぐについた。でも、2回目のDMの返事はこず、俺はすぐにブロックされた。
「くっそー! あいつめ! お、俺の体はどうなっちゃったんだ」
俺は言われた通りに鼻で呼吸をしないようにして、再び電車に乗った。さっき感じた車内のいい香りはしてこない。食欲もそそられない。
俺は、さっき確かに血を吸いたいって思った。誰かに噛みつきたいような衝動に駆られた————吸血鬼————まるでこれじゃあ、吸血鬼じゃないか⁉
でも、冷静に1つ1つ考えると状況が一致していた。吸血鬼にはいろいろな言い伝えがあるらしい—————十字軍で婚約者を失くしたドラキュラ伯爵が神を呪って吸血鬼になっただの、いろいろあるらしいが————映画とかそういったものは、どれも目が赤かった気がする。そして、人間の血を求める————吸血された人間は同じように吸血鬼になる————そう、今の俺だ。
俺は、とりあえず大学へ行った。今日は3限からの授業だったけど、3限は出席しないで、4限から出席した。なるほど、鼻での呼吸さえしなければ、どうにかなった。友達も誰も俺の異変に気がつかない。
5限の授業が終わると、俺はそのままバイト先に行った。確か、今日のシフトに神野キリコも入っていたはずだ。
「あれ? 今日、シフト入っていたっけ?」
「あ、いや、忘れ物しちゃって」
ロッカーに入ると、店長がいた。俺は、店長の目を欺くために自分のロッカーを開けた。
「そういや、昨日神野さんはちゃんと送ってあげたの?」
「あ、はい————その、神野さんのことなんですけど———」
「ああ、聞いたの?」
俺は、一瞬ドキッとした。もしかして店長は知っているのかと思った。
「彼女、急に辞めることになったんだよね。引っ越しをして学校も変わるって。高校生だから大変だな」
「えっ⁉」
「何だ、聞いたんじゃないのか。詳しくは言えないけど、おうちの方が大変らしいよ」
「い、いつ? いつ引っ越しをするんですか?」
しまった! 今鼻で息をした————店長の血が、首筋の血管の血の流れが————生生しい————。
俺は、バッとロッカーの方に顔を向けた。店長に目の色を見られないためだ。
「それが、直ぐだっていってたな。だから、次の週末とかじゃないのか?」
「ああ、そうなんですね————」
それじゃあ、すぐにでも行かないと駄目だ。まだ聞きたいことがある。
「それより、忘れ物はあったのか?」
「ああ、ありました。じゃあ、俺はこれで」
「お疲れさん」
俺は店をあとにした。今の目の色が分からないから、できるだけ下を向いた。歩いている途中で、建物のガラスに俺の姿が映ったから目の色を確認したが、黒に戻っていた。
俺は、眼鏡屋に行って色の濃い目のサングラスを買った。今度赤くなってきたらこれをかければいい。でも、神野の目が赤くなったのを見たことないから、俺だってコントロールしてみせる。
神野の家は、昨日送っていくときにその場所をだいたい聞いていた。だから問題なく家には行ける。
神野の家までつくと、そこにはちゃんと表札もあった。でも、家は真っ暗で、人の気配もまるでなかった。インターホンを押しても誰も出てこない。
俺は敷地内に入った。1階は全部きちんと鍵が閉まっていた。
「くそ! 本当の吸血鬼みたいに空飛べるとかの身体能力があればいいのに」
思わずそう口にして、ハッとした。可能性としては分からない。試してみる価値はある。
辺りに人の気配は全くなかった。いや、他の家の中に人がいるのは分かったけど、外にはない————と、いうか、俺は何でこんなことが分かる⁉ この時点で既に違う。
少しの不安と期待を持って、俺はまず思い切りジャンプしてみた。
「うわっ!」
飛び上がれた場所は、2階建ての家の高さを軽く越していた。4階にも届きそうなくらいの高さだ。でも、空中で止まることはできずに、すぐに下へ落ちていく。でも着地は音も立てずに着地をすることができた。
やばい! 俺すげえ! そう思った俺は、今度は2階のベランダ目指して飛び上がった。俺は軽々と2階のベランダに着地した。
「なんだよこれ! ちょっとすげえ———これは気分いいぞ」
俺は軽く興奮をした。まるで、もっと小さなことに夢見た超人の力を手に入れたみたいだったから。
2階のベランダの鍵は閉まっていた。
「もしかして、これ、鍵も外から開けられるとか? よし、鍵に集中してみるか」
俺は鍵に意識を集中し、頭の中で鍵を開けた。それと同時に窓の鍵は見事に開いた。
「これ、簡単に泥棒でもなんでもできるな」
俺は、そう言いながら軽い興奮が冷めない状態だったけど、そのまま家の中に入った。家の中には誰もいないし、家具も何もなく、がらーんとしていた。
「いったいどこに引っ越したんだ———」
俺は何か手がかりがないかと思って、家の中をくまなく探した。玄関の備え付けの靴箱は下が開いていた。そこにも靴が置けるようになっているのだろう。だけど、そこにメモのような紙が落ちていた。そして、その紙には住所が書いてあった。バイトで見たことのある神野の字ではない。きっと家族が何かで書いたものを引っ越しのときに落としたのだろう。
俺はそのままその住所の先へ向かうことにした。新幹線に乗らないといけないけど、今夜のうちに到着しそうだった。
新幹線に乗って、神野が引っ越したと思われる住所の先へ向かう。新幹線を降りてもさらに他の電車に乗り換えていかなくてはならなかった。
勘違いじゃない————誰かが、同じ奴が俺をつけてきている。
新幹線から乗り換えをしても、ずっと同じ気配がついてきていた。それは、神野の家に落ちていた住所の最寄りの駅に降りたあともついてきていた。
最寄りの駅からはタクシーに乗ろうかと思ったが、帰りも新幹線を使うと考えるとちょっと出費が痛かった。
もしかしたら、早く走れたりして? 近くにいる人がどこにいるか分かったり、高く飛び上がれたり、今までできなかったことができるようになっている。今日1日何も食べていないのに—————いや、夏なのに俺は何も飲んでいない。しかも、気温も暑いはずなのに、昨日、あのときまで感じていた暑さすら感じない————。
俺が電車を乗り換えてもずっとつけてきている独特な気配の奴—————俺が速く走れたら、あいつのことも撒けるかもしれない。
俺は、人目を避けて、建物の角を曲がった。曲がった先は行き止まりだ。曲がってすぐに俺は高く飛び上がり、建物の上に着地をする。そのまま反対側の道に降りた。もちろん、誰にも見られないように注意を払った。
人に気がつかれないところでは素早く、人がいるところは人と同じ速度で歩いて俺は街中を抜けた。畑や田んぼがあって、時々使われているのかどうかも分からない建物があるだけの田舎道。俺はかなりの速さで走り抜ける。
まだ、ついてきている————つまり、こいつは人間じゃない————もしかして俺と同じか⁉
俺は、急に昨日の夜に頭に過った映像を思い出した。人を吸血するか、同族を消滅させるか————そうすれば人間に戻れる。
3階建てくらいの今は使われていないような工場の前を通過するとき、急に誰かが俺に横から蹴りを入れてきた。俺は建物とは反対側のうっそうと木々が生い茂った森のような場所に吹っ飛ばされる。
俺の体は大きな木にぶつかった。メキメキと音がしてその木が折れてきた。それなりに大きな音がしたけど、辺りには人家は全くない。一瞬、人の気配がした気がしたけど、それを気にしている余裕がなかった。
木の下敷きにならないように、俺は立ち上がって避けた。その俺の目の前に俺と同じくらいの背丈で、俺よりは10歳位年上に見える男が立っていた。目の色が黒くない。かなりの暗さがあるのに、その目は赤く光っていた。
男はさっとどこから出したのか、刃渡りが結構長めのナイフを取り出した。片方の刃がギザギザしていて、まるでサバイバルでもするかのような奴だ。絶対に銃刀法違反だろ⁉ でも、それ以上に赤く光っている目が俺には怖かった。
男はナイフで俺を刺そうとしてきた。俺は考えもしていないけど、反射的にそれを避けた。俺は確かに運動神経はいい方だったけど、それにしてもすごい反応速度だ。
男は俺が何度避けても、ナイフで突き刺そうとしたり振り回したりして俺を襲ってくる。
「やめろよ! 俺はお前に何もしてないだろ!」
「うるさい! 俺は、人間に戻るんだ。そのためにはお前を殺さなきゃいけないんだ!」
ビュッとナイフが俺の頬を掠った。俺の頬からは血が流れ始めた。
「やっぱりな。お前はまだ吸血鬼になったばかりだ。戦い方も知らない。大人しく俺に殺(や)られろ!」
「ふざけんな!」
俺は怒りが急激に沸き上がって、男の腹部に思い切り蹴りを入れた。男は後方へ吹っ飛んだ。その時にナイフも手放した。俺はナイフが空中に放り上がったときに、すぐにナイフを掴んだ。
「くっ! 何でだ? 俺は既に1人殺(や)っているのに」
「知るか! 昔、空手を習っていたせいじゃねえの?」
小学生のときに3年だけ空手を習っていた。でも、あまり好きになれなくてやめた。それが、こんなところで役に立つとは思いもしなかった。
男は、背中を下についたまま腹部を押さえていたが、ニヤリとして立ち上がった。
「でも、お前はまだ俺を殺す事まではできないみたいだ」
俺は、男との動きに警戒を強めた。このまま逃げてくれたらと心のどこかで思った。しかし、男は俺に向かってきた。
一瞬にして背後に回り、拳で頭を殴られそうになった瞬間に俺は身をかがめてかわす。だが、男は俺を上の方へ蹴り上げてきた。俺はとにかくナイフだけは手放すもんかと握りしめていた。
「どうした? このままじゃ、俺に首を切られるぜ」
上の方へ飛ばされた俺のさらに上で声がしたかと思うと、俺は激しく地面に叩きつけられた。男が両方の掌を組み合わせて思い切り俺を下へ叩きつけたのだった。
叩きつけられた衝撃で、俺はナイフを放してしまった。男は当然それを拾うと、すぐに立ち上がれない俺の首を目掛けてナイフを落としてきた。俺はすんでのところでそれをかわす。
「うっ、くっ………お、お前、俺の首を切るまでやめない気か?」
俺は、すぐに立ち上がって、男との距離を取る。その距離をジリジリと男が詰めてくる。
「当たり前だろ? 俺にはもう時間もない。あと数日で俺の目は黒く戻らなくなる。普通のものが食べれなくなり、人間の血だけを求める。お前は知らないだろ? そうなった吸血鬼たちは独特のオーラを出すようになる。それを狩る奴らがいるんだ」
「狩るって⁉ それで、殺されるのか?」
「そんなに生易しいもんじゃない。実験体だよ! どうせお前はここで死ぬんだから教えてやる。吸血鬼の血も肉も、その体の全てが薬や兵器に役立つ。お前が普段飲んでいる薬にも使われてんだよ! 教えてやろうか? 吸血鬼のおかげで動物実験はほとんど行われなくなった。動物愛護団体はいても、吸血鬼愛護団体なんていないし、そもそも知られていないしな」
「だって、俺たちの身体能力は普通じゃないじゃないか! だったら人間なんかに捕まるはずがないだろ?」
「多勢に無勢だ。だいたい、吸血鬼の動きを止める装置がある。しかも、吸血されて1カ月まではいいが、それ以上過ぎると今とは比べ物にならないくらい人間の血を求めるようになる。人間の血を頻繁に吸わない奴は、人間の匂いを嗅ぐだけで動きも鈍るしな。だから、捕まっちまうんだよ。どうしたってな」
「そんな………」
「だから、今ここで俺に殺されることはむしろ感謝されることだ。若い女とか、すげー顔のいい男とかなら、おびき出して3人くらいの血を飲むことができるだろうけど、お前には無理だろうしな」
「お、お前は、どうしてそんなに詳しいんだ⁉」
「俺は、実験していた側の人間だ」
「なっ⁉」
こいつはそんな酷いことを平気でやっていたのか? いくら吸血鬼だって————元は人間なのに!
「それなのに、あの女、俺の血を吸いやがった————まあ、俺が殺した1人目の吸血鬼はその女だけどな。ハハハハハ」
こいつ、狂ってやがる!
「お前、何で他の人間を吸血鬼にしないで、吸血鬼を殺す方を選んだんだ?」
「ああ、それはな、相手を吸血鬼にするための吸血は、相手が吸血する側に拒否反応を示しているとうまく吸血鬼の毒が回らないからだ。意味、ないんだよ」
どうする? こいつは俺の首をどうしても切るつもりらしい————逃げ場もない。こいつが人間に戻りたいなら、人がいるところでは騒がないだろうけど、人がいるところも随分離れている。
「これで、よく分かったか? お前と、さっきからこっちを盗み見ている奴!」
俺はハッとした。そう、確かにもう1人この場にはいる。でも、この男との戦いのせいで気にすることすらできなかったけど。
「出てこいよ! 興味津々じゃねーか。お前、吸血鬼に興味あるとか?」
少し離れた木の陰から、中年の女がその姿を現した。
「わ、私は復讐がしたいの。そのあとはどうなってもいいのよ。あいつらにさえ復讐ができたら」
「なら、俺が吸血鬼にしてやろうか? 事情を言ってみろよ」
「わ、私の1人息子があそこの廃工場で殺されたのよ。まだ中学3年だったのに————相手は、県議会議員の息子で、もみ消されたわ。ただの事故だって。私、悔しくて誰にも見つからないように時々ここに来て証拠がないか見ている。どうしても、私の息子を死に追いやった3人組とその両親に復讐をしたいのよ。そのあとは私はどうなってもいい」
「そんな、他のお子さんや旦那さんはどうするんですか?」
俺は、思わず叫ぶようにそう言った。
「旦那とはずっと前に離婚をしているわ。それに1人息子だっていったでしょ! 私には兄弟もいないし、親も数年前に死んでいるからもういいのよ」
俺は、言葉がそれ以上は出なかった。
「それなら、利害は一致だな。俺はこいつを消したあと、お前を吸血鬼にしてやる。見ていて分かっただろうけど、人間よりずっと高い身体能力を身に着けられる。それで、復讐をしたあと、俺に殺されればいい————言っておくが、どちらにせよ、1週間後はお前を絶対に消しに行くからな」
こいつは、この人をこのまま逃がすということも絶対にしないはずだ————ここまで現場を見られたのだから————なら、俺はこいつをやるしかない———でないと、俺も殺される。
「さて、それじゃあ、さっさと片付けるか!」
また来る! こいつは、俺がちょろいと思っている。俺がこいつのことを殺すことなんてできないって思っている。ただ、抵抗することしかできないって!
俺は、男の攻撃をかわしながら移動をした。辺りを見回して、何か凶器になるものがないか必死に探した。
あ、あれだ!
俺は、わざと怯えた感じで男の攻撃を避ける。
「ほらほら、どうした! 逃げているだけじゃ、殺(や)られるぞ!」
男は、もともと残虐性を持っているのか、俺がよけることしかできない様子に楽しんでいた。
「うわっ!」
俺は、足元の木の根に足をとられて尻もちをついた。男は容赦なく俺の上からナイフを振りかざしてくる。俺は、手元にあった、木の太めの枝を掴んだ。さっき俺がぶつかって倒れた木が折れて少し飛び上がって落ちたものだ。
「なっ!」
男が声をあげた。俺の背後から何かが? 砂みたいなものが投げつけられ、男の目に入った。俺は、すかさず木の枝を思い切り男の腹部へ突き刺した。
「うぎゃあ!」
俺は、立ち上がると、男の横に回った。男は目が見えないのと、腹部への痛みで数歩よろけた。そこへ、思い切り強く男の背中から回し蹴りを下の方へ入れる。その先には折られて尖った部分がいくつか出ている太い木の幹があった。
ズシャッという音と共に、男の体は木の幹に突き刺さった。だが、まだこれで終わりじゃない。吸血鬼は、あのとき映像で見たように首を切らないと死なない。
俺は、男の持っていたナイフを男の手から奪い取り、勢いよく男の首へ振り落とした。ナイフは若干手前に引くようにした。男の首にナイフが到達する瞬間、俺は目を閉じてしまった。人の首が切り落とされる瞬間何て見たくなかった。
ゴロンと男の首は転がった。さっきの女はすぐ近くにいる。そもそも、砂を男にかけたのはその女だった。俺は、女の方を向いた。
「何故、俺を助けたんですか?」
女は怯えているように少し震えている。
「あなたの雰囲気が、少し息子と重なったから———だから」
「そうですか————それにしても、どうします? ここでの出来事をなかったことにしてくれると約束してくれるなら、俺もあなたとは今後関わらないようにします」
「待って、お願い。私を吸血鬼にして!」
「こんな状況を見てもまだ言うんですか? 吸血鬼になったら平穏な生活は無くなる。俺みたいに誰かに狙われるかもしれないし、実験体になるかもしれない。それで、いいんですか?」
「私は、もう、生きていたくないんです。でも、あの子の復讐だけは果たしたい。あなただって、私を吸血鬼にすることに罪悪感は持つ必要ないわ」
罪悪感————そもそも、俺は今人を殺した。正確に言えば、人だった奴し、俺を殺そうとしたやつだけど————もう、こんなことしたくない————この人を噛んで、あと誰か2人噛めば、人間に戻れる。
「本当にいいんですか? 俺は責任は持てませんよ」
「分かっています」
「じゃあ、いきます」
俺は、既に血だらけだった。あの男の腹部を刺したときにその血しぶきがかかっていたから。その血だらけの顔を手の甲で拭った。神野みたいに舐めたいとは思わなかった。
女の首筋に流れる血流が生々しくドクドクと脈打つ。それはあまりに甘美で、少し顔を近づけただけで抗うことができない。俺は女の首筋に歯を立てた。歯を立てる瞬間に犬歯が伸びて女の首筋の皮膚に突き刺さった。女はビクついたが、すぐに力を失くした。俺は女の体を支えながら、血を吸う。
これ以上は駄目だ!
何故そう思うのか分からないけど、俺は強くそう感じて女の首筋から離れた。俺の口の周りには女の血がついていて、俺はベロリとそれをからめとらずにはいられなかった。
女は少しふらついている。きっと昨日の俺と同じ状態になっているのだろう。俺は、その場に女を残して、逃げるように走った。何から? 人の生き血の味を知った自分から? 人を殺してしまった感触から? とにかく何かがとてつもなく怖かった。
俺は、そのまま走り続けて、神野キリコの家の前まで来た。確かにここに来る前に地図では確認したけど、こんなに正確に着くことができたことも少し恐ろしかった。
俺は、神野の家の前にはついたが、どうするか迷っていた。神野の家の周りには他にもいくつも家があった。時間は随分遅くなっている。もう日付も変わってしまっている。
神野の家の2階の窓がガラリと開いた。そこから、神野キリコが顔を出し、俺の方を見た。神野は俺と目が合うと、窓から飛び降りて、俺の元までやってきた。
「少し、家から離れたいから来てくれる」
神野は小声でそう言うと、勢いよく走り出した。そして、人家がなくなる場所まで来て止まった。
「どうやって、私の家が分かったの?」
「お前の前の家を探したらメモ書きが落ちていてそれに書いてあった」
「そう————それで、何をしにきたの? 私を殺しに来たの?」
神野の顔は怯えているようにも、怒りが湧いているようにも見えた。
「違う! もう、事情はだいたい分かった。お前はあと何人吸血鬼にするんだ」
「浜田さん、あなたで最後なの。だから、ちょうど良かったの。悪いとは思っているわ。でも、私だって被害者なのよ。引っ越しすることになったから、思い切って好きな男の子に告白したら、吸血鬼にされたの。でも、人間に戻りたかった。どうしても人間に戻りたかった」
「自分さえよければそれでいいのか?」
「そんなこと言ったって————だいたい、あなただって、今人間の血の匂いがする。血を飲んだんでしょ? あるいは吸血鬼にしたの? まだ昨日の今日なのに————私より随分決断が早いわ」
「違う! これは頼まれたから————」
「それに、別の吸血鬼の血の匂いもする————誰かを殺したのね?」
「これは————いきなり襲われたから————」
「もし、そうだったとしても、同じでしょ! 自分が生き残りたいからそのために他の人を犠牲にしたんじゃない。私だって、人間に戻りたかっただけよ」
何なんだ、この女! 自分をひたすら正当化しようとしているだけか? 俺は、滅茶苦茶な目にあったっているのに————この女のせいで!
「何でお前はまだ吸血鬼なんだ? 3人吸血鬼にしたから終わりじゃないのか?」
「これは、私が出会った吸血鬼に教えてもらったんだけど、3人目を吸血鬼にしてもきちんと人間に戻るまでは1週間はかかるの。最初に吸血鬼になってから1ヶ月以上が経過しているか、残りの日数が少ないとその日数分だけ人間になるまで時間がかかるの。私は、あと8日間あったから、丸々1週間はかかる」
「じゃあ、今俺がここでお前を殺したら、俺は2人目の吸血鬼を殺したことになるんだな」
「そ、そうだけど————何を考えているの? お願い、見逃して。私、1人っ子なの。両親が悲しむわ」
「じゃあ、お前が責任取って、人間に戻ったらまた俺に吸血鬼にされればいいのか? お前はまた他の誰かを吸血鬼にすればいい」
「人間が拒絶していたら、吸血鬼にはならないのよ。だから、そんなことできないわ」
「ああ、知っている————別に何もしない————ただ、俺もこんな風にはなりたくなかっただけだ」
何で、こんな女のところに来たんだろう? もう、吸血鬼のことはほとんど知ったのに————だけど、どうすればいいか分からない。
「もう、行くわ。家族には手を出さないで! そんなことしたら許さないから!」
神野はそう言うと行ってしまった。
「胸糞が悪い。あんなに自分勝手で自己中な女だって分かっていたら、送っていこうなんて思わなかったのに————俺はいったい何をしてしまったんだろう?」
あの男の首を切ったときの感触が残っていた。その感触は生々しさの分だけ俺の気持ちも悪くさせる。
「もし、人間に戻っても、俺は普通にやっていけるのか?」
人間の血を飲んだ感触も生々しかった。あの官能的で甘美な感触———それをもう一度味わいたいという感覚も持ってしまった。
「1人吸血鬼にして、1人殺した————あとはどうすれば?」
俺は、脱力するようにしゃがみ込んで、そのまましばらくの間動けずにいた。
